五月 九日、月曜日の話
英語と僕

 英語は、今の僕にとっては無意味な知識である。

[◆]英語の利用価値

 僕の事を知っている人は大抵知っていると思うが、勉学の中で僕が一番嫌いなのは外国語である。今現在は英語がもっとも身近なので、英語相手の話をすることにする。

 正直、“英語が嫌いか”と聞かれると、おおよその意味としては頷くところであるが、細かいところでは躊躇するだろう。細かいところの心境を話すと、嫌いなのではなく、「相手にする価値がない」ために「無視している」という感覚になる。英語の授業には出るのだが、テープの音や先生の発音などは右から左にその場ですぐに抜けてしまう。覚えようという気力が湧かず、単語を辞書で調べはするのだが、意味を書き取ったらすぐに忘れる。また、調べている間も先生の授業説明は止まる訳ではないので、授業の方も片手持ちという感じになる。

 自分でもどうして英語が頭に溜まらないのかと不思議に思い、色々考えてみているのだが……しっくりくるのは、「英語を利用して、何か利益が得られるわけではない」というのが感覚として近い。僕の性格上、「僕の考える利益」とは「現実生活において利用できる」事を指す。ゆえに、「試験で使うから」と言われても気力は湧かない。「就職で絶対に必要になる!」と言われても、就職も試験と何か次元が違うわけでもない。試験も就職も、自分を試され、また人生を左右するものに変わりはない。また、現実生活的でもない。

 英語は普通に生活する中では一切利用価値がない。僕が英語をまともに勉強しようと思う気になるのは、英語圏の人としゃべるときぐらいだ。英語という言語しか利用できないから、その瞬間から現実生活的になるから気力が湧くのである。
 別に、英語の書物をどうしても読まなくてはならないわけでもあるまいに。しかも、その読まなくてはならない本というのも僕が読みたいと思わなくては駄目で、授業で使う教科書を渡されても、それが僕の興味をそそる内容でなくては埃を被るだけである。

 その昔、僕の英語の家庭教師をしていた恩師が、「学業と言うのは詰め込めばすぐに開花するわけじゃない。一回バケツに知識を溜めて、それを種のまかれた植木にかける事で開花する。いまはまだ、バケツに充分な量の知識が溜まってないだけさ」と言われた事があった。この時は「ああ、なるほど」と思ったものであるが、今考えると、どう考えても僕のバケツは底に穴が開いていそうだ。

 僕の心境は他の人にはとても解りにくい物だと思う。英語が出来る人にとっては、なぜそんな事でつまづいているのか、と思われる内容に違いない。試験で利用できれば充分だし、と思われる方もいるだろう。しかし、僕にその前提はない。利用価値があると言われるならば、僕のお母さんが平気で「英語なんか忘れた」と言う理由を教えていただきたい。

 はやく翻訳こんにゃくが開発されることを強く望む。ぶつくさ言ったところで、試験はあるしね……。